【内容説明】
古九谷(こくたに)
伝統画風「時代絵」のひとつ
狩野派の名匠・久隅守景の指導を受けたといわれるもので、青(緑)・黄・赤・紫・紺青の五彩を使い、絵画的に完成された表現力で大胆な構図、のびのびとした自由な線描き、豪快で深い味わいが魅力となっています。五彩のうち赤を用いず、塗り埋める青手もあります。
【製品】
皿類が最も多く、鉢・汲出し茶碗・徳利・香炉など多くは型物である。 点茶具・酒盃の類はまれである。 絵付はその最も特色とするところで、意匠構図が卓絶し、筆力は雄勁調達自在で、しかも端厳である。描かれている鳥獣・草木・山水・家屋すべてが大小の比較にとらわれず、彩色はまた大胆で多く現実を超え、かえって調和の美を示している。
【詳細説明】
加賀国(石川県)の磁器。わが国最初の磁器の一つで、柿右衛門・仁清と共にわが国彩画陶磁器の三源流の一つと称され、特に作風の男性的健勁豪壮をもって著名である。その創起については寛永年間(1624〜44)説、正保・慶安(1644〜52)説、承応2年(1653)説、明暦元年(1655)説などがある。 1639年(寛永16) 加賀藩三代前田利常の三男利治が江沼郡大聖寺 (加賀市)に分藩した時、家臣後藤才次郎定次・田村権左右衛門らに封内諸所に製陶を試みさ せ、正像年間(1644〜1648)頃九谷村(江沼郡山中町九谷町 現在の加賀市)に良好の磁土を発見した。 ちょうど利治も同地の吸坂焼程度のやきものには飽きたりない頃であったため、万治年間(1658〜61)頃、 定次の子忠清を肥前有田に派遣した。忠清はつぶさに苦心したが、陶家の秘法は固く、たまたま長崎 において中国明朝から亡命の陶工に会い、これを 伴って帰国し、寛文(1661〜73)初年より旧 九谷村に磁器の製造を起こしたと伝えられる。時に狩野探幽の門下である久隅守景が金沢でその器に絵付をなしたという。 1674年(延宝2)2月、江沼郡林村 (小松市林町)において藤田吉兵衛らが皿鉢類の陶器を出した。これは民窯であったが製品は九谷村の藩窯と大差なく、現今とも古九谷と称されている。 以後厚く藩の保護を受けて約30年間継続したが、幕府の猜疑や鍋島藩の抗議などの事情によって、元禄(1688〜1704) 初年まったく廃絶してしまった。 なお古九谷という称呼は、文政(1818〜1830)年中に開窯した吉田屋窯において、この地の古製を区別して「古九谷」と呼んだのに始まり、当初は大聖寺焼と称されたようである。さらにその技法の伝統については創始年代や創始者後藤才次郎忠清の正体と共に諸説があり、有田において伝習したともいわれたり、また木原山説・渡支説などがある。 近年、有田古窯址から藍九谷風の磁片や、誉銘あるいは太明銘の破片の出土をみたので、古九谷の一部が初期伊万里の作であるとする説もある。
【時代順の作風】
時代順の作風によってこれを説明すると、
(1) 吸坂古九谷
古九谷以前に同郡吸坂 (加賀市吸坂町)において焼かれたもの。古九谷の起こる道程にあったものというべきであるが、古九谷と同じく大聖寺城内で絵付された。瀬戸風の褐釉陶または備前風炻器の抹茶器を主とする。この素地に南京風柿釉を施し、また白地を現わすなど工夫して色絵・赤・銀などで文様を加えている。いわゆる吸坂焼であるが、この種の破片が有田窯から出土するので、一部では初期伊万里説がある。
(2)祥瑞風色絵古九谷
祥瑞手の染村文様をそのまま色絵としたもの。丸文模様が特に多く、おおむね古九谷初期の作である。
(3)明様五彩古九谷
古九谷中の代表的優良品。素地は 洗練され画風もまた高尚で、中国風の花鳥・山水・ 人物および文様の絵付が円熟している。骨描には 黒と赤を用い、濃色には緑・黄・紫・紺青・赤の 五彩を交え、上等品には画中・高台・印款・周線 などに染付を加え、または柿色の縁を施している。この手のものを献上古九谷と称する。
(4) 狩野画古九谷
明様五彩で絵付してあるが、画風が 著しく狩野風に変わっているもの。守景直絵と称するするものはこの期の作である。 純中国風のものより少しのちの作であろうが、磁質はかえって劣り、 染付は冴えず、縁錆のないものが多い。
(5)宗達風古九谷
俵屋宗達の風を酌んだもの。狩野風と同時またはやや後期に属し桃山風の寛大さを示している。縁紅・染付ともにほとんどなく、また五彩全部を用いるものが少ない。素地はいささか白味を帯びて狩野風よりは端正である。
(6)三彩古九谷
宗達風の終わり頃から明工が持参した彩釉がおいおい少なくなったためか、まず紺青が姿を消し、赤もまた使われず、黒のみをもって描き、紫・黄・緑の三色をもって試みたもの。
この種の上手物にはなはだ薄い素地があり、透明の度も増し、また少量の金銀を点じたものもある。
(7)二彩古九谷
さらに紫を使わず黒描の上緑と黄のみでダミを施したもの。この種のものは焼成火度が低く、素地は分厚で陶器に近く、細ひび のあるものがある。おおむね全面に花鳥・魚獣な どを筆太に描き、二色をもってダミを施したものが多く、後世の吉田屋風の範をなしている。なお二彩および前項三彩のダミを施したものをその色調の似ている所から交趾手古九谷と称え、また黒線の上 を透明な色彩でダミを施した手法を捉えてペルシア手古九谷と称え、単に青手古九谷ともいう。
(8) 赤絵古九谷
古九谷の一種。赤だけで全面に文様を描き、これに少しの金や銀を加えたもの。この種の胎は精緻な磁器で、時代も三彩・二彩の古九谷よりも古く明様五彩古九谷の時期と大差がないようである。(松本佐太郎著)
(9)余り手古九谷
古九谷の一種。骨描きを染付で現わし黄・緑・赤 の三色で彩った一見中国の万暦赤絵に近いもの、および骨描きを染付と赤で現わし黄・緑・赤を割り込み、色や絵が祥瑞の手法に似通ったものなどをいう。どちらも黄色および緑色が不純で冴えず、おそらく中国から持ってきた絵具の残りを使用したためといわれている。 余り手古九谷の名称はここから出た。(松本佐太郎著)
(10)乳白手古九谷
やや後期の作に柿右衛門の胎質に似た乳白色の素地のものがある。文様はおおむね赤・金・銀をもって描き、まれに紺青・紫緑を点 じ交える。ダミを施したものはない。しかも紺青は濁りを帯び、紫は冴えず、緑もまた手薄く明様の彩色と異なるが、赤だけは古九谷特有のもので、図柄はまた古九谷の様式である。
(11) 瑠璃古九谷
脂質・青色ともに中国清朝の霽青磁器に似ているが、絵付の風は古九谷である。金・銀・赤のみで描き彩色を使わない。しかも赤には少し肉があってあだ艶がみえ、五彩古九谷の赤と異なる。 染付金彩古九谷の赤はこの類である。
(12)青磁手古九谷
古九谷には青磁は少ない。多くは青磁釉と 白磁釉を塗り分け、または瑠璃と片身替りになっており、全体に青磁釉をかぶせたものはみない。色は淡緑色で品位に乏しく、その青磁釉の上へ金銀で絵を描いたものもあるが他の色彩を交えない。
(13) 染付金彩古九谷
古九谷中の晩期に属す。極めて純白精良な素地に鮮明な染付藍をもって模様を現わし、 その上を金・銀・赤で括った巧みなもの。
(14) 藍古九谷
古九谷の一種。白磁染付の単彩で、素焼をせず、形状・絵付ともに精巧。中に浮文・沈文・繡花文などの技を加え、あるいは染濃に白線を現わし そめダミ文様としたものもある。(『九谷陶磁史』)
これらの種類のほかに、仁清古九谷または大聖寺仁清と称するものがある。吸坂窯産の一種で、絵付の緑・青 ・黄・赤の各色または開片・錆釉など仁清の風を現わしている。
別に西域文様の配色を加えた器がある。なお伝聞によると、古九谷は白素地と染付または青磁・瑠璃などの下釉のみを九谷の窯で焼き、 大聖寺城内に運んで色絵付をなしたものという。
【古九谷の印款】
二重角中に隷書に似た種々の崩し方をした「福」字が最も多く、次に「禄」字の変形、または室町時代の糸印に似た読み続き文字が あり、中に単に「太明」「万暦」「太明嘉精年製」と書したものがある。また染付および青磁の類には二重丸に「寿」字が多く「寿」「福」を重ね組んだものや「天下太平」と記したものがある。また無銘のものも少なくない。
【古九谷の模作】
若杉窯以来小松・大聖寺・山代 などにおいて模作ははなはだ多い。本多貞吉が在世の間に模したものは、磁釉に深味がなく、色彩は淡く、赤色にやや黄味があり、図様はいくぶん伊万里の気分を交えている。
嘉永・安政(1848〜60)頃の模作は塗り潰しが多く彩釉の艶が光りすぎであった。1887年(明治20)頃 山代の九谷陶器会社で写したものは、素地・高台づくり・縁錆・絵付・形状・図様・印款など巧みに写真物に迫っていたが、ただ染付の色が概ね、淡く奇麗すぎた。また明治末頃大聖寺の井上隆平が復興した九谷窯は、原土を旧地より採って精製したため真疑を分かち難い。(『九谷陶磁史』)