【内容説明】
吉田屋(よしだや)
伝統画風「時代絵」のひとつ
青手古九谷の塗り埋め様式を再興したもので、赤を使わず青(緑)・黄・紫・紺青の四彩を使っています。模様のほかに小紋を地紋様風にして、器物全面 を絵の具で塗り埋めた、重厚さのある 作風で独特の雰囲気があります。
【製品の特徴】
図様は通俗的でくだけた日本意匠が多く、その骨描は絵呉須の黒色だけで赤を使用せず、また彩色は緑・黄・紫・紺青の四種で赤はない。
大体は古九谷を写したけれどもいま一歩の距離があり、染付は全然ない。銘款はおおむね角形に簡易な書体の「福」字を書いている。製器は主として皿および鉢類であるが、その他徳利・組重・急須・盃などがある。ただし抹茶関係のものはほとんどみられない。(『観古図説』『九谷陶磁史』)
【詳細説明】
吉田屋窯(よしだやがま)の説明
加賀国江沼郡九谷村(現在の加賀市)の旧地に再興したもの。 能美郡若杉窯(現在の小松市若杉町)にいた本多貞吉の養子清兵衛は九谷村陶窯の再興を思い立ち、家業を義弟栄吉に譲り、貞吉の 門人源右衛門・儀兵衛の両名と共にたびたびこの地を踏査した。
たまたまこの企図を大聖寺村 (現在の加賀市)の豪家吉田屋の四代目豊田伝右衛門が聞き、その投資を得て1824年(文政7) 古九谷の廃絶後130にして再び九谷村に開窯した。 1826一年 (同9) 交通不便の理由で同郡山代村字越中谷(加賀市)に窯を移した。翌年に伝右衛門が没し、その後を宮本屋宇右衛門が管理。1835年(天保6)
宮本屋理右衛門(宇右衛門の実弟)は七代吉田屋伝右衛門より業を譲り受けて経営し、宮本屋窯となった。
当時吉田屋窯は大聖寺藩の特別な保護を受け、清兵衛・源右衛門以下二十数名の工人が整然とした工場組織下に従業していた。
製器の質は磁器に近い一種の炻器であるが、陶釉が黝み、不快な開片を出したものがある ため、おおむね古九谷の一種である塗り潰し手に倣い、器の内外高台内までも彩釉で覆ったものが多い。